2009年06月30日

主に漢民族によって発展させられ

伝統中国医学(でんとうちゅうごくいがく)とは、中国において、主に漢民族によって発展させられ、朝鮮半島や日本にも伝わってそれぞれ独自の発達を遂げた伝統医学の総称。英語の「Traditional Chinese Medicine(略:TCM )」の訳語。日本においては、東洋医学(とうよういがく)と呼称されることが多い。中華人民共和国から見て東洋医学という用語は日本の伝統医学を指すことがあるが、国際東洋医学会という国際学会があるように、日本・韓国・台湾では一般的な用語として用いられている。
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全身を見て治療を行う。現代医学も全体を見ていないわけではないが、伝統中国医学は複数ある症状をもって「証」という概念で治療方針を決める点で異なる。ただし、この「証」も古くは症状の「症」と同じ。例としては、中風証、腰痛証など。現代の鍼灸の流派によっては古体字の「證」を用いることも多い。例として、肝虚證、気虚證など。
体の自然治癒力を高めることで治癒に導く。ただし、効果の科学的根拠(EBM)が不明瞭なので、こういう表現が出てきたのだと思われる。現在では、いくつかの生薬の薬物効果は明確にされているが、生薬は複合して処方するため、実際には何が効いているのかわからないことが多いので、手っ取り早い方法として伝統中国医学的に解釈する。また、鍼灸も同様で、鍼と灸を組み合わせて治療するだけでなく、ツボ(経穴)もいくつか用いるため、どのツボが効いているのか明確にならない。よって科学的解明も容易ではない。
診断も、機械や採血を用いず、四診によって行う。よって、体を侵襲することがなく、害が少ないとされる。伝統中国医学が医学の主幹となっていた時代に、現代医学のような技術は存在していないのが当たり前であるが、伝統中国医学の診断は、機械のない環境でも行えるというのが特徴である。医院はともかくとして、鍼灸院のような小さな環境でも東洋医学は可能である。ただし、診断にも技術が必要であり、数年の勉強と訓練が求められる。鍼灸師も学校や国家試験だけでは満足な量の勉強ができないため、多くは鍼灸の勉強会や鍼灸院で修行を積む。また、漢方も同様で、学校主体の教育で満足な臨床能力が身につくかどうかは疑問とされており、中国での研修に行く例も少なくない。

2009年06月12日

代謝物が核酸(DNA、RNA)の合成に必要な物質

効果を最大限に発揮させる用法であるが、強い副作用等が予測されるため、治療に熟知した医師の判断の下で行われることが望ましいとされている。

5-FU/ロイコボリン(LV)療法
5-FU/レボホリナート療法
本剤およびその代謝物が核酸(DNA、RNA)の合成に必要な物質のかわりに核酸に組み込まれる。これにより本来の核酸の合成が阻害(代謝拮抗)され、抗腫瘍効果を表す。

脱水症状、重篤な腸炎、骨髄機能抑制、ショック、アナフィラキシー様症状、白質脳症、うっ血性心不全、心筋梗塞、安静狭心症、急性腎不全、間質性肺炎、肝機能障害、黄疸、消化管潰瘍、重症な口内炎、急性膵炎、意識障害を伴う高アンモニア血症、肝・胆道障害(胆嚢炎、胆管壊死、肝実質障害等)、手足症候群、嗅覚障害
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

ソリブジン(商品名:ユースビル、日本製薬製造販売・エーザイ共同販売)
癌による免疫力低下で発生するリスクが高い帯状疱疹の治療薬として、1993年に上市された国産新薬のユースビル(これもウラシル類縁体である)は、代謝物がフルオロウラシルの代謝を阻害して副作用を強く出現させる。そのため、ユースビルが発売されて間も無く、5-FUの類を投与されていた癌患者を中心に15人の死者を出す一大薬害を引き起こした。
発生機序としてソリブジンは体内でブロモビニルウラシルに代謝される。このブロモビニルウラシルはフルオロウラシルの代謝酵素と結合して不可逆的に阻害することによりフルオロウラシルの蓄積が生じる。このことにより骨髄抑制などの中毒症状を引き起こすのである。
なお、「ソリブジン事件/薬害」と称される5-FUとの相互作用問題から、1993年にユースビルの自主回収後に承認が取り下げられ、製造打ち切りから相当期間が経過した為、1999年12月までに5-FUなど相互作用が関係する医薬品添付文書から併用禁忌を含めソリブジン(ユースビル)に関する記述は削除された。
TS-1
テガフールという5-FUのプロドラッグと拮抗剤の複合薬で、5-FU製剤を併用するとフルオロウラシルの代謝を阻害することとなり、血中濃度を上げる。

2009年06月07日

直接皮膚に損傷を与える化学兵器の

後にガスマスクが広く利用されるようになると、吸引によって作用するだけではなく、直接皮膚に損傷を与える化学兵器の開発が進められた。第二次世界大戦においては「毒ガスが使用される」という風評被害により軍隊内の士気が低下する問題が指摘された他、毒ガスを航空機や投下する爆弾や大陸間弾道ミサイルにより散布する技術の発達により、非戦闘地域にいる民間人にまで化学兵器に対する恐怖心が蔓延し、社会問題となった。

第二次世界大戦中から冷戦の時代に掛けて、神経性の物や糜爛性(皮膚をただれさせる)の物が開発された。この時代において化学兵器は「貧者の核兵器」と形容され恐れられた。特に冷戦時代の赤狩り(資本主義圏におけるヒステリックな共産勢力の糾弾が行われた)が横行した頃には、化学兵器による侵略やゲリラ的な活動が懸念され、大きな社会不安となってあらわれた。

一方、アメリカはベトナム戦争当時、平野での戦闘に慣れていたアメリカ軍が、森林での戦闘に長けていた(ろくな兵装も無い)ベトナムゲリラに苦戦していた事から、森林を平地化するため、焼夷弾による焼き討ちと平行して、大規模な枯葉剤の散布を実行、広範囲にダイオキシン汚染を引き起こした。この物質は、催奇性が極めて高く、また非常に安定しているため、この汚染により長い期間、ベトナム全土で異常出産の問題が発生している。

またイラクでは紛争地域で神経性の化学兵器が使用され、紛争地域に含まれていた村落で住民が多数死亡する等の事件も発生しており、また他の国も紛争地域における化学兵器の使用を行う事例が見られた。これの時代を通じ、化学兵器による環境汚染や後遺症の問題が明らかとなり、また世界に知れ渡った事から、化学兵器禁止条約(CWC)が締結され、国際社会では「化学兵器は使用してはならない」という共通認識が生まれ、過去に製造された化学兵器の無毒化処理や廃棄が進められている

1994年世界で初めてオウム真理教がテロにサリンガスを使用した、松本サリン事件を起こし、7名の死者・660人の負傷者を出した。この事件の後、同教団は1995年に再び、東京都地下鉄内で地下鉄サリン事件という大規模なサリンガスによるテロ事件を起こして、死者12名、負傷者5,510名という大惨事となった。
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この事件を受け、化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律やサリン等による人身被害の防止に関する法律が制定された。自衛隊では従来の災害救助任務の範疇に、毒ガス汚染に対応する事を決定した他、他の国でも年々悪化するテロリストの問題に、化学兵器に対する備えを始める所も出てきた。

これら化学兵器は、使用方法によっては核兵器並の加害効果が期待できるうえに核兵器より容易に製造出来、また兵士と民間人を区別しない大量虐殺兵器として国際社会から非難を受けている。このため先進国を中心として、国家間の紛争解決手段として化学兵器を使用する事は勿論、製造する事も避けられる傾向が強い。その一方ではテロリストが使用することが危惧されている。

生物兵器とあわせて「貧者の核兵器」と呼ばれ、また旧東側諸国ではソビエト連邦崩壊時のような国家体制の激変時に軍隊が保有していた化学兵器が(核兵器や生物兵器と同様に)不法に流出したのではないかと危惧されている。

また、過去に遺棄された化学兵器が土壌汚染を起こすという問題も発生している。いまでは「安全に処理する」研究が進められている。

2009年04月24日

非常に栄養塩に富み

親潮はその名が示すとおり非常に栄養塩に富み、豊かな水産資源をもたらす。その栄養塩の濃度は黒潮の少なくとも5?10倍と言われ(数十倍?数百倍とも言われる)、春になると日射量の増加や温度躍層の発達に伴って植物プランクトンの大増殖が起こり、動物プランクトンや魚類の格好の繁殖場になる。そのため親潮は緑や茶色がかった色になる。

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親潮は流れとしては弱く、流速は速いときでも 1ノット(約0.5m/s)を超える程度だが、深いところまで流れがあるため流量は大きく、最近の調査では黒潮に匹敵する流量になりうることも分かっている。本州東方海域では、親潮は舌状に南方に張り出して来ることが多く、このような舌状の冷水部を沿岸側から数えて、親潮の第1分枝(親潮接岸分枝)、第2分枝(親潮沿岸分枝)と呼ばれる。この親潮分枝の消長は漁業や沿岸の気候に大きな影響を与える。親潮の南側の端には親潮前線が形成され、この前線を境にして南北で海水温、塩分が大きく異なる。

黒潮との潮目
東北日本沖は親潮起源の海水が分布する海域に黒潮や黒潮起源の暖水塊が分布し、更に沿岸を津軽海峡から流出する津軽暖流も流れる複雑な海域であり、混合水域となっている。親潮は低温のため黒潮より密度が高く重いので、混合水域では黒潮の下に沈みこむ形になる。この時にできる潮目では黒潮とともに北上してきた多様な魚類が親潮の植物・動物プランクトンにより繁殖し、この海域は量・種類ともに豊富な好漁場となっている。

親潮の異常南下
親潮は通常1月頃から本州東岸に沿って南下するようになり、4月頃最も南に張り出して宮城県沖付近まで達するが、時には茨城県沖付近まで達することがある。この現象を親潮の異常南下と呼ぶが、このような変化は、主に冬の季節風によって親潮の南下が促進されるために起こると考えられている。その後は次第に南下の度合いは弱くなり、11?12月頃には釧路沖付近まで後退する。親潮系の冷水の南下は沿岸の環境に大きな影響を与えることがわかっており、魚群の分布の変化や不漁など、沿岸漁業への悪影響が生じる。また、この冷水が夏まで存在すると、東北地方の太平洋岸に冷夏をもたらす影響を与えている可能性が指摘されている。

影響
気候にも親潮は大きな影響を与えている。北海道の東部や東北太平洋岸では夏にあまり気温が上がらず霧が発生することが多い。これは夏の暖かくて湿った空気(太平洋高気圧)が親潮によって冷却されるためである。

また、氷期に海水準変動が低下した時にベーリング陸橋ができて、親潮へのベーリング海の影響が無くなったため、東アジアでは寒冷化の影響をあまり受けなかったという説がある。これは現在の東アジアが同緯度のヨーロッパ地域より寒冷な環境であるにもかかわらず、氷期にほとんど氷河が形成されなかったことの原因の一つとされ、東アジアでは鮮新世以来の植物の種が96%生息しているのに対し、ヨーロッパでは27%しか残っていないことを根拠としている。しかし、全く寒冷化の影響を受けなかったわけではなく、季節性や降水量の問題も関わってくるため異論もあるようだ。

2009年04月06日

インテリジェント・ダンス・ミュージック

インテリジェント・ダンス・ミュージック(Intelligent dance music)は音楽のジャンルの一種で、テクノの細分類の一つにあたる。英語表記の頭文字を取ってIDM、また単にインテリジェントと呼ばれることも多い。

必ずしもダンスフロア向けではない、独特で幻想的なリズム、メロディーラインが特徴である。また実験的な要素も強く、ジャズやクラシック音楽の要素を取り入れるアーティストも存在する。ワープ・レコーズがAIシリーズをリリースした1993年頃から、ポストレイヴサウンドの一つとして注目された。またAIシリーズからもアルバムをリリースしているエイフェックス・ツインのレーベルであるリフレックス・レコーズに関するメーリングリストがIDMに大きく関わっているといわれる。

初期のIDMはワープがAIシリーズを終わらせた1994年で一旦落ちつくが、PCの進化などで打ち込み環境が大きく向上した1999年頃から再び活発となっていった。

主要アーティスト [編集]
2 Lone Swordsmen
Astrobotnia aka Ovuca
Atom Heart
アモン・トビン
エイフェックス・ツイン
Arovane
オウテカ
B12
ブラックドッグ
ボーズ・オブ・カナダ
Bogdan Raczynski
Bola
Capitol K
Cex
Efterklang
Enduser
Four Tet
Datach'i
The Flashbulb
Funkstörung
Jega
Kaman Leung
Kettel
Kid 606
Kirk DeGiorgio
Khonnor
Machinedrum
Matmos
Monolake
Mouse on Mars
ムーム
?-ziq
no.9
Ochre
Otto Von Schirach
Pan Sonic
Phoenecia
プラッド
Prefuse 73
Proem
Richard Devine
Secede
Seefeel
Speedy J
スクエアプッシャー
Telefon Tel Aviv
To Rococo Rot
Venetian Snares

モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

2009年03月22日

ニコイチ

ニコイチもしくはにこいちとは、機械・器具の修理に際し、二つの不良個体から部品を組み合わせ、一つの個体にすること。二つの個体がそれぞれ別な個所で故障あるいは破損している場合に行われ、一方の個体の故障個所に他方の個体から取り出した良品を組みこむことで修理を行うものである。

かつて自動車の中古車市場などで、事故車などから部品を取って一台の車に仕立て上げた粗悪品を言う言葉として使われていたが、その後一般名詞化したものと思われる。二個で一個の略から出た言葉である。

なお、ニコイチで部品を供給した側も、さらに別な故障個所をもった第三の個体があればそちらにも部品を供給することができるし、逆に故障個所の多い個体の場合3個体あるいは4個体を用いないと1個体の良品を再生できない場合(この場合、サンコイチやヨンコイチと呼ばれることもある。)もあるが、これらも広い意味でのニコイチといえる。

通常、製造メーカー自身、あるいはメーカー指定の修理会社等で保守サービスを行う場合には、製造メーカーが供給する修理用部品を用いて故障個所や破損個所を修理する。しかし、製造メーカーや修理会社による修理が受けられない場合で、どうしても修理を要する場合には、やむなくこのような修理方法をとらざるを得ない。このような必要が生ずることがあるのは例えば次のような場合がある。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

製造メーカーは製品の製造終了後一定期間は保守サービスを提供するが、その期間が過ぎると修理用部品が無くなるなどの理由で修理を辞退することがある。また、製造メーカーが倒産、解散あるいは業態変更したことなどにより、その製品の保守サービスができなくなることがある。古くなってもその製品を愛用したいと考えるユーザーに可能な方法のひとつがニコイチ修理である。無線機、オーディオ製品、フィルムカメラなどの古いが価値のある製品(ビンテージ製品)ではよくこうした修理方法が必要になる。

また、メーカー修理が可能であるにも拘らず、修理費用の節約のために行う場合もある。特にエレクトロニクス技術を多用した機器では、機器の高密度実装が進んだ結果、修理時の交換単位が大きくなった。30年前の真空管式テレビ受像機では、不良になった真空管や焼き切れた抵抗器を交換するなどの修理が行われたが、近年では機能の大半を占める回路基板アセンブリをそっくり交換する方法で修理を行うことが多い。パーソナルコンピュータやデジタルカメラなどでも、そうした修理方法を採用する場合がある。このため修理費が高くつき、消費者は修理よりもむしろ買い換えを選びたくなることがある。中古品の修理などはまさにそうした場合で、メーカー修理を選ばず、ニコイチ修理で済ませることで費用を節約するユーザーや、非メーカー系の修理業者がでてくる所以である。当然のことながら正規の修理ではないので、メーカーに再修理を持ちこむなどすると修理を断られることがある。このため、修理は自己責任で行う必要がある。

こうしたニコイチ修理のためには、同等な製品が複数あることが必要であり、特に古い製品の場合にはまずニコイチの相方を探すことから始めなければならず、ジャンクを探して中古販売店やネットオークションを頼ることなどが必要になる。

自動車におけるニコイチ [編集]
自動車においてはモノコックを大きく切断・溶接し「ニコイチ」された個体のことを「接合車」と呼ぶ。ほぼ全ての中古車オークション会場では接合車の出品が禁止されている。なお、屋根だけを交換したもの、同じ車体を切断し溶接したものも全て接合車の扱いとなる。車両保険で全損扱いになった事故車を安く(または無料で)引き取り復活させ、転売して儲けるための手段として使われる場合が多い。接合車は存在自体が詐欺であると言える。

もちろん、自動車修理・カスタムにおける「ニコイチ」は接合車製作を必ずしも意味するものではない。様々な部品の移植(不動車に部品取り車の同型エンジンを搭載するなど)と言う意味での「ニコイチ」はよくあることである。ネットオークションや個人売買において部品取り車が車体丸ごとで売られることは珍しいことではなく、特に旧型車になってくると部品供給がおぼつかなくなる不安から複数の部品取り車を保有するオーナーもいる。また、カスタムカーの世界においては装着されているカスタムパーツ目当てで部品取り車を購入し、自車に移植するというケースも考えられる。この場合、「ニコイチ」と中古パーツを利用した修理・カスタムはパーツ購入の単位が違うだけで境界線はあいまい、とも言える。またスワップチューン(エンジンスワップや顔面スワップなど)も「ニコイチ」と呼称される事があるほか、それらに使う部品をボディ側に使われていたものとエンジン側に使われていたものとの「ニコイチ」で製作することもある。この例としてRPS13型180SXに、S13型シルビアのフロントを装着した日産・シルエイティ等がある。

自動車以外でのニコイチ [編集]
鉄道車両の転用改造にあたり、先頭車(制御付随車)の運転台部分の車体を切り離し、中間電動車に切り継ぎして制御電動車を作り上げるような手法、両運転台の車両が必要な場合に片運転台の車両に別の車両から運転台部分を切り継いで造る場合(例:キハ58×2両→キハ53)にもみられる。これも広義のニコイチ的な改造と考えられる。
プラモデルなどの模型の世界では、複数の市販キットを組み合わせて違うタイプの機体を製作したり、複数のメーカーの同じ機種のキットから良い部分を組み合わせて完成度の高い作品を製作する手法を指す。

その他 [編集]
上節で示すように、ニコイチとは元々、二つのものから一つのものを修理・製造することを指すが、そこから転じ、二つのものを一組として扱うことも意味するようになった。

オートバイあるいは、普通自動車に二人で乗車している場合をニコイチと言うこともある。アマチュア無線などで「ニコイチワンパックモービル」といえば、二人乗車の状態であることを指す。オートバイのタンデム乗車は、二人で一体となって走るのであるから、言葉的には適当な表現である。

2009年03月07日

モントピリア (軽巡洋艦)

モントピリア (USS Montpelier, CL-57) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の3番艦。艦名はバーモント州モントピリアに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

モントピリアは1940年12月2日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工した。1942年2月12日にウィリアム・F・キャリー夫人によって命名、進水し、1942年9月9日に艦長レイトン・ウッド大佐の指揮下就役した。

モントピリアはバージニア州ノーフォークを出航し、1943年1月18日にニューカレドニアのヌーメアに到着し、アーロン・S・メリル少将率いる第12巡洋艦戦隊の旗艦となる。1月25日にニューヘブリデス諸島のエファテ島に到着、同地を拠点として数ヶ月間を過ごす。ガダルカナル島付近の敵勢力を一掃する間に、モントピリアは1月29日にレンネル島沖海戦に参加した。

2月21日にはラッセル島への上陸部隊を支援した。3月5日、6日の晩、モントピリアはビラ・スタンモーア夜戦において、コロンバンガラ島の飛行場を砲撃し、敵駆逐艦の撃沈を支援した。6月29日、30日、モントピリアと僚艦3隻はニュージョージア島侵攻準備としてポポラン島への砲撃を行う。7月11日、12日の晩にはムンダへの砲撃を行った。続く4ヶ月間、モントピリアは日本軍の撤退を妨げるためニュージョージア島付近の偵察巡航を行った。

オーストラリアのシドニーを訪れた後、モントピリアは第39任務部隊の旗艦となり、トゥレジャリ諸島およびブーゲンビル島への侵攻部隊に加わる。11月1日にはブーゲンビル島北部のブカ=ボニス飛行場へ砲撃を行い、ポポラン島、バラレ島の日本軍守備隊に攻撃を行った。巡洋艦と駆逐艦から構成された第39任務部隊は11月2日の夜にブーゲンビル島沖海戦で日本艦隊と交戦する。結果はアメリカ艦隊の勝利で終わり、モントピリアは敵艦1隻の撃沈の支援に加え、敵機5機を撃墜した。

1944年2月15日から19日までモントピリアは、ビスマルク諸島のグリーン島への上陸を支援した。3月にはトラック島南方で敵艦を探索し、エミラウ島侵攻部隊に加わる。6月14日にマリアナ諸島侵攻支援のためサイパンへの砲撃を開始し、19日から21日まで第58任務部隊と共にマリアナ沖海戦に参加した。この海戦で日本軍の空母部隊は事実上壊滅した。モントピリアはマリアナ諸島に戻り、サイパン、テニアン、グアムへの砲撃を継続した。8月2日にマリアナ諸島を離れ、オーバーホールのため本国に帰還する。

11月25日に戦場に復帰、レイテ湾沖で任務部隊に合流する。同湾沖で偵察巡航中にモントピリアは多くの奇襲攻撃を退け、敵機4機を撃墜した。12月12日からはミンドロ島侵攻支援のため沿岸での援護を行う。1945年1月のリンガエン湾上陸では特攻機の攻撃から上陸部隊を守り、2月にはコレヒドール島のマリベレス湾、パラワン島での作戦支援、4月14日から23日まではミンダナオ島への上陸を支援した。拠点であるスービック湾からボルネオのブルネイ湾に向けて出航し、6月9日に到着する。6月17日から7月2日までバリクパパンの給油所から出航し、掃海艦、水中爆破班、上陸部隊への支援を行う。モントピリアは艦砲射撃によりオーストラリア軍部隊を支援し、多くの連合軍将兵の命を救った。7月の後半から8月にかけては東シナ海で3度の哨戒を行った。

戦争が終了すると、モントピリアは和歌山港に停泊し、連合軍捕虜の収容を支援した。日本軍艦艇の検査後、モントピリアの乗員は広島市の様子を見学するために上陸した。10月18日には松山市で駐屯軍の上陸支援を行い、11月15日に瀬戸内海を離れ東海岸に向かう。太平洋からハワイを経由してサンディエゴに向かい、続いてパナマ運河を通過、最終目的地のニューヨークに到着した。

1945年12月11日に大西洋艦隊に合流、1946年7月1日に第16艦隊に配属される。モントピリアは1947年1月24日にフィラデルフィアで退役し係留された。1959年3月1日に除籍され、1960年1月22日にベスレヘム・スチール社にスクラップとして売却された。

モントピリアは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。
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歴代艦長
レイトン・ウッド Leighton Wood 海軍大佐:1942年9月9日 - 1943年6月9日 初代艦長。最初の巡航中に死去。
ロバート・G・トービン Robert G. Tobin 海軍大佐:1943年6月9日 - 1943年12月2日
ハリー・D・ホフマン Harry D. Hoffman 海軍大佐:1943年12月2日 - 1945年3月3日 将官へ昇進。「"The Horse."」の愛称で呼ばれる。
ウィリアム・A・ゴーリー William A. Gorry 海軍大佐:1945年3月3日 - 日本降伏時の艦長。

2009年02月18日

V2ロケット

V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ロケット(弾道ミサイル)であり、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが命名した報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)を指す。この兵器は大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された。開発名称の Aggregat 4(略号:A4)も知られている。
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1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会(Verein für Raumschiffahrt)は、宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー (Walter Dornberger) 陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。

フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型の A2 ロケット(質量500kg)の飛行実験を成功させた。

1936年までには、チームは A2 ロケットの開発計画を終了し、新たに A3 と A4 の開発に着手した。後者は射程距離175km、最大高度80km、搭載量約1トンとして設計された。フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増しつつあり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿するため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場 (Heeresversuchsanstalt Kummersdorf) からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島に新設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場 (HVP) に移した。

A4 の約1/2スケールモデルのA3は4回の打上げに全て失敗したため、A5 の設計が始められた。このヴァージョンは完璧な信頼性を備え、1941年までに約70基が試射された。

最初の A4 は1942年3月に飛行し、およそ1.6km 飛んで海中に落下した。2回目の打上げでは高度11.2km に到達して爆発した。
1942年10月3日の3回目の打上げで成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって 192km 先に落下した。

1940年頃よりイギリス軍情報部は写真偵察からこの開発計画を察知し、1943年8月にペーネミュンデを爆撃した(ハイドラ作戦)。このため、同年11月より生産テスト・発射訓練部隊は内陸部奥深くの武装親衛隊演習場、ハイデラガー(Heidelager)(現ポーランドのブリツナ Blizna)に移動した。1944年5月には、試射されたミサイルをポーランド人レジスタンスがブク川の土手から回収し、極めて重要な技術的詳細をイギリスに伝えたこともあり、連合軍はペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させた。

ドルンベルガーは当初よりトラクター牽引式の発射装置を想定し、ロケットのサイズを鉄道・道路での輸送が可能な範囲に留めることを設計条件としていた。アドルフ・ヒトラーは地下発射陣地に拘り、最初の陣地建設がカレー近くで1943年に開始されたが、イギリスは直ちにこれを爆撃して破壊した。この一連の作戦はクロスボー作戦 (Operation Crossbow) として著名。

このため地下発射陣地建設計画は破棄され、ミサイル、人員、機器、燃料を乗せた約30台の各種車両から成る技術部隊・発射部隊が編成された。ミサイルは工場から射場近くまで鉄道輸送され、運搬車 (Vidalwagen) に載せ換えて射場まで道路輸送された。弾頭が取り付けられた後、発射部隊がミサイルを発射台兼用車 (Meilerwagen) に移し、液体燃料を注入して発射した。

ミサイルは事実上どこからでも発射可能で、カモフラージュの観点から特に森林の道路上が好まれた。射場決定から発射までの所要時間は、4 - 6時間程度で、機動性の高い小部隊だったため、一度として敵空軍に捕捉されたことはなかった。

なお、報復兵器のうち、V1は空軍所管だったのに対し、V2は陸軍が所管した。これは、V1が飛行爆弾で「無人の戦闘機」とみなされたのに対して、V2はロケットで「巨大で高性能な砲弾」と考えられことによる。

生産・発射
V2は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した工場で、ドーラ (Mittelbau-Dora) と名づけられた強制収容所の収容者により生産された。その多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、そのうち約10,000人が過労死したり、警備員の手で殺された。

最初に運用段階に達したのは第444砲兵大隊で、1944年9月2日、当時解放されたばかりのパリを攻撃すべく、ベルギーのホウファリーゼ近くに発射基地を設営した。翌日には第485砲兵大隊がロンドン攻撃のためにハーグに移動した。数日間は打ち上げは失敗に終わったが、9月8日両部隊とも成功した。

続く数ヶ月間に発射された総数は次の通り。


岩塩坑跡に設置された生産ラインドーラの焼却炉ベルギーに対して
アントウェルペン 1610
リエージュ 27
ハッセルト 13
トゥルネー 9
モンス 3
ディースト 2
フランスに対して
リール 25
パリ 22
トゥールコアン 19
アラス 6
カンブレ 4
イギリスに対して
ロンドン 1358
ノリッチ/イプスウィッチ 44
地上部隊が爆破に失敗したライン川の鉄橋を目標に
レーマゲンの鉄橋 11
オランダに対して
マーストリヒト 19
1945年3月3日連合軍はハーグ近郊の V2 と発射設備を大規模爆撃で破壊しようと試みたが、航法誤差のため Bezuidenhout 区域が破壊され、市民に500人の死者を出した。

V2 の軍事的効果は限定的であった。ごく初歩的な誘導システムは特定目標を照準できず、コストは4発で概ね爆撃機1機に匹敵した。(爆撃機はより遠距離の、より正確な目標に、遥かに多くの弾頭を、幾度も運搬可能) ただし心理的効果はかなり大きく、爆撃機や特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違い、超音速で事前の警告なしに飛来し、既存の兵器では迎撃不可能なV2は、ドイツにとって有用な兵器たりえた。特に、ロンドン市民は連日の攻撃に多大な不安に晒され、市街地への被害も甚大であった。

反面迎撃不可能ゆえに、V2の攻撃を阻止するには発射基地を制圧する必要があり、かえって連合軍のドイツ侵攻を早める動機づけにもなった。そのような意味ではドイツの敗北を早めた兵器とも言える。一方、同じ報復兵器のV1飛行爆弾は低速で迎撃が可能な分、かえってそのために戦力を割かねばならず、戦略的にはV2より効果があったとも言える。

上記の欠点を嫌ったアルベルト・シュペーアは、より小型で使い勝手の良い兵器の開発を望んだが、大型兵器による戦局打破に拘ったヒトラーに押し切られ、製造が続けられた。


2009年01月28日

織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は元亀2年(1571年)9月12日に行われた戦い。この戦いで、織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。またこの戦いはルイス・フロイスの書簡によって全世界に知れ渡る事になる。一方近年の発掘調査から全山にわたる掃討戦ではなく、場所も限定的で短期間に終了した可能性も指摘されている。

元亀元年(1570年)6月28日姉川の戦いで勝利した織田信長であったが、同年8月26日野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政、朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井長政、朝倉義景連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。しかし、浅井長政、朝倉義景連合軍の軍事力は今だ強大で、しかも近江国南部は六角義賢が抑えており、また野田城・福島城の戦いで勝利した三好三人衆も摂津国、河内国を抑えて再び京奪還を狙っていた。更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津国、河内国、近江国、伊勢国、そして織田信長のお膝元でもある尾張国の門徒衆にも号令を発し、各地で反乱が広がる様子を見せていた。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

細川幽斎像この時期、織田信長は岐阜と京都に拠点があったが、両拠点を結ぶ街道にはそれぞれ有力な軍事力に包囲されつつあり、是が非でもこの包囲網を打破する必要があった。そこで織田信長は、まずは岐阜と京都の中間地点でもある近江国南部から平定する必要がありと考えたらしく、翌元亀2年(1571年)の正月の賀礼に、岐阜城へ訪れた細川藤孝らに向かって「今年こそ山門(比叡山)を滅ぼすべし」と決意を述べたと伝わっている。

手始めに同年1月2日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から備前国に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井長政、朝倉義景連合軍との連絡を遮断するのが目的であった。織田信長から木下秀吉への命令書が、

僧兵“ 北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し。

とあり、尋問して不審な者は殺害せよ、と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』によると奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。

次いで同年2月磯野員昌が守っていた佐和山城を降伏させ丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。しかし同年6月長島一向一揆では、織田信長軍の有力武将であった氏家ト全が戦死、柴田勝家も負傷する大敗を喫した。しかし江北では、一向一揆勢と浅井長政軍が連合軍となって、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、こちらは木下秀吉軍が堀を援けて奮戦し、一向一揆勢、浅井長政連合軍は敗退した。

このような状況の中、とうとう織田信長自身が出軍することになった。同年8月18日浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、同年9月1日柴田勝家、佐久間信盛に命じ、浅井長政と同盟関係にあった、六角義賢と近江国の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。志村城は670もの首級があがり、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらも大きな戦闘も無く落城した。

同年9月11日には織田信長軍は坂本、三井寺周辺に進軍させた。ここに比叡山攻略が整った。信長の本陣は三井寺山内の山岡景猶の屋敷に置かれた。

池田恒興画像
日吉大社の本殿比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的な重要なポイントとなっている。先の比叡山の攻防戦では、織田信長の誘降戦術も拒絶し、浅井長政、朝倉義景連合軍を援けたりもしたので、『戦国合戦大辞典』によると「軍事的拠点を、完全に破却したようと考えた」としている。第一次信長包囲網で各勢力から包囲される中、近江国の平定と比叡山の無能力化が、戦線打破の重要課題と考えられていた。比叡山の無能力化とは、比叡山が織田信長方に属さない以上、軍事的役割の抹殺つまり比叡山の徹底的破壊を意味している。

しかし織田信長軍の武将の中に、この考え方に賛同しない者もいた。『甫庵信長記』によると佐久間信盛と武井夕庵らが、

“ この山と申す事は、人王五十代桓武天皇、延暦年中に伝教大師と御心を合せ、御建立ありしよう以来、王城の鎮守として既に八百年に及ぶまで、遂に山門の嗷訴をだに不用と云う事なし、然るに今の世澆季とは申しながら、斯る不思議を承り候事、前代未聞の戦にて御座候

と「前代未聞の戦」という言葉を使い強く諌めたが、織田信長はこれに激しく反論し全山焼き討ちが決定されたと思われている。ただこのくだりは『織田信長総合辞典』によると「『信長公記』にも見えないから事実か否か明らかではない」と解説している。

この時池田恒興が進言し、夜になってしまえば逃散する者も出るであろうから、早朝を待って取り巻いて攻めれば一人も討ち洩らすことなく討ち取る事が出来る、とした。織田信長はこの言を聞き入れ、同年9月11日夜中より比叡山の東麓を3万兵が隙間なく取り巻いて、早朝の合図を待った。

この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金三百を、また堅田からは二百を贈って攻撃中止を嘆願したが、織田信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止む無しとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。

翌12日午前六時前後小雨が降る中、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に各所で法螺貝と鬨の声があがり、攻め上がっていた。『信長公記』にこの時の惨状を、

“ 九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一字も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り

信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六と記載されている。これによると延暦寺の僧兵達も必死で防戦したが四方から焼き攻め立てられ、日吉大社の奥宮の八王子山も立て篭もった者もいたようだがここも攻め崩された。この時の織田信長軍は徹底しており、逃げどまう僧侶、学僧、上人、児童の見つけ次第捕えられ、首をことごとく刎ねられ、目も当てられぬ惨状であったと思われている。この戦いで『信長公記』には数千の死者、ルイス・フロイスの書簡には約千五百名の死者と記載されている。また『言継卿記』によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,000-4,000名が殺されていたとしている。一方木下秀吉隊の半分は湖上を固め、小舟で逃れる者たちをからめ捕えた。しかし『比叡山』によると、陸路の香芳谷を守る木下秀吉隊は寛大だったようで、ここから宝物を抱えて山門衆が脱出に成功し、後の国宝に指定される「二十五菩薩来迎図」や「慈恵大師画像」が兵火から逃れられたと伝わっている。

2009年01月20日

速記(そっき)

速記(そっき)とは、速記文字や速記符号とよばれる特殊な記号を用いて、言葉を簡単な符号にして、人の発言などを書き記す方法をいう。主に議会や法廷の発言を記録する分野や出版、ジャーナリズムなどで利用されている。

この技術の知識体系を速記法、技術を運用する方法を速記術、実際に運用する者を速記者という。また、社団法人日本速記協会では文科省認定速記技能検定試験1級に合格し、申請した者を速記士に登録している。

速記の起源は古代ローマ以前に遡ることができる。その起源に関しては定説が成立していないが、紀元前400年代の古代ギリシアで速記碑文が発見されている。

有名な速記記録としては紀元前63年のキケロによるカティリナ弾劾演説の記録である。当時の速記はティロの速記と称され、当時の速記は知的奴隷が充てられていた。ティベリウス帝は満足な速記ができなかった速記官の指を切り落としたという記録がある。またローマ法のなかには速記を禁止された演説を速記した者は右手を切り落とすという刑罰が定めたていた。しかし体系化されていない速記法であり、学習に大きな困難を伴うため、次第に衰勢となった。

その後は速記を理論的体系的に捉えるようになり、次項以下で紹介する各国語の速記法が考案、改良されて現在に至った。更に符号を手で書くペンショートハンドのほか、速記専用タイプライターを用いた機械速記もあり、近年コンピュータで速記符号を反訳する電子機械速記法がリアルタイム字幕などに使用されている。

速記は発言の逐語記録を作成する用途を担ってきたが、リアルタイム反訳により、聴覚障害者等を含めて、コミュニケーション手段としての機能を持つに至っている。

英語の速記
英語の速記は1175年のジョンの記号まで遡ると言われるが、近代速記としての速記理論を提案したのはジョン・ウイリスである。1602年、『速記術(Art of Stenography)』を出版し、Stenography(速記)という造語を行い、線状速記の使用や、表音的な筆記法、母音表記のためのポジショニング等を提唱し近代速記の父と呼ばれている。

このウイリス式を発展させ、シェルトン式(1626年)やガーニー式(1750年)、テーラー式等が考案されていった。そして1837年に登場したのがピットマン式である。ピットマン式はテーラー式を学んだアイザック・ピットマンがより高速で速記ができ、学習性に優れた速記法として考案したものである。

一方アイルランドでは、ロバート・グレッグがテーラー式、ピットマン式、そして仏独の速記法を学び、イギリスで主流であった正円幾何派とドイツの草書派を融合させ、更にフランスのサイン符号をも取り入れたグレッグ式を1888年に考案した。

ピットマン式、グレッグ式は今日でも英語圏で使用される主要な速記の地位を占めている。
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

ドイツ語の速記
ドイツの速記の特徴は草書派と称される、筆先の動きを速記に適した符号に変換した方式であった。初めて速記理論を完成させたのは1834年のフランツ・クサフェア・ガベルスベルガーであり、ガベルスベルガー式と称されている。この速記法は北欧諸言語をはじめ、イタリア語、東欧諸語、ロシア語のサカロフ式に影響を与え、更にイギリスにも影響を与えロー式を生み出している。ガベルスベルガー式はその後改良が進み、ジャーマンショートハンドと呼ばれている現代速記に受け継がれている。

フランス語の速記
フランス語の最初の速記は1633年にジャック・コサールが発表したものとされるが、現代速記につながる系統としての起源は1778年にクロン・ド・デノブが発表したクロン式と言われている。現在ではエーメ・パリ式、デュブロワエ式、ドロネ式が使用されている。

中国語の速記
中国語の速記は1896年に蔡錫勇が発表した伝音快字に始まる。これは速記に主眼を置いたものでなく、表意文字の漢字の学習困難による文盲一掃を目的にしたものである。アメリカに渡り速記法を目の当たりにした蔡錫勇はピットマン系のグラハム式を参考に基礎符号を定め、北京語の音節を表音的に表す方法を確立した。しかしこれはあくまでも知識人個人としての提案に過ぎなかった。

ところが清国政府が国会を開設するにあたり、その議事記録方法として注目されることで本格的な中国速記史が始まる。清国政府は蔡錫勇の次男である蔡璋を召還して速記法を考案させた。1910年には資政院に中国速記学堂を解説し、約200名を対象に速記官養成が開始された。1911年からは二人一組で30分速記作業を行う形態が資政院の議事録で採用された。

このピットマン式の影響がある速記法は1935年頃まで主流を占めたが、その後グレッグ式の影響を受けた速記法が登場、更に中華人民共和国成立後はソ連のサカロフ式の影響が入り斜線派が登場した。その嚆矢が1952年に顔廷超が発表した人民速記法案である。それ以降正円幾何派、半草書派、草書派は入り乱れ様々な速記が用いられている。